記念塔(日西墨三国交通発祥記念之碑)
日西墨三国交通発祥記念之碑
施設諸元
- 所在地
- 千葉県夷隅郡御宿町岩和田702
- ご利用可能時間
- 夏季 午前8時~午後5時
冬季 午前8時~午後4時30分(夏季・冬季ともに時間外は施錠されています) - 公衆トイレ
- あり(男女別、水洗、障害者用あり)
- 駐車場
- 14台
日西墨三国交通発祥記念之碑とは
日西墨三国交通発祥記念之碑とは、1609年(慶長14年)9月30日(旧暦9月4日)の朝、岩和田海岸(現田尻浜)で当時フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ総督を乗せたイスパニア(スペイン)船・サンフランシスコ号が沈没し、これを岩和田の人達は力を合わせて救助しました。当時の岩和田の人口は300人程で、助かった人は300人以上、部落の生活は貧乏でしたが、心のやさしい人々は自分のことよりも他人の難儀を救うために、大切な着物や、食べ物を分け与えました。
このことがあってから、日本とメキシコとスペインと三国の交通が始まったのです。このことを記念して、御宿町の東、岩和田の山の上に白く輝く記念塔が1928年(昭和3年)に建ちました。
- (参考)
- サンフランシスコ号の乗員総数373人
生存者317人・死体収容数・行方不明56人
日西墨友好の絆記念日
1609年9月30日スペイン船サン・フランシスコ号がメキシコに向かう途中、岩和田沖に座礁し、当時の岩和田村民が乗組員317名の尊い命を助けました。先人たちのこの偉大な史実から始まる友好の絆を後世に伝え、より深めるため、御宿町では9月30日を「日西墨友好の絆記念日」に制定しました。
絆記念日を中心に、当時の乗組員に対しての追悼式や献花式、様々な三国交流行事を開催しています。
日本メキシコ交流400周年記念式典
サン・フランシスコ号漂着400周年記念祭り
先人たちの偉大な史実からちょうど400年、2009年9月26日、先人の功績を讃え、そしていつまでもこの勇気ある行動を忘れず、後世へと引き継いでいけるよう、日本メキシコ交流400周年記念式典及びサン・フランシスコ号漂着記念祭りを行いました。
この式典には、皇太子さまをはじめ、駐日メキシコ、スペイン両大使や武正外務大臣、森田知事など多くの方に出席していただきました。
日本メキシコ交流400周年実行委員会名誉総裁を務める皇太子さまは「日本とメキシコとの相互理解と友好が、今後ますます深まることを期待します。」と述べられました。
また、メキシコ彫刻界の巨匠ラファエル・ゲレロ氏の作品「抱擁」がメキシコ政府から寄贈されました。
2009年11月21日の「抱擁」像の除幕式より
日西墨友好の絆記念日制定後初めての記念式典
2010年9月8日、町では先人が築いた友好と絆を永く後世へと繋げるため、サン・フランシスコ号が漂着した9月30日を日西墨友好の絆記念日に制定しました。制定後初めての式典では、メキシコ記念塔の前で追悼式を行い。在京メキシコ・スペイン両大使館や千葉県などから多くの来賓が参列し、当時の乗組員に対して献花と黙祷を捧げました。
また、月の沙漠記念館前広場では三国交流イベントとして、スペインのフラメンコ、メキシコのマリアッチショーが行われました。
サン・フランシスコ号の乗組員に対する黙祷
スペインのフラメンコ
メキシコのマリアッチ
テカマチャルコ市長来町
2017年の絆記念日式典には、メキシコのテカマチャルコ市長一行が来町、参列しました。メキシコ記念塔での献花式の後、月の沙漠記念館前広場にてメキシコ・スペインの伝統音楽の演奏が行われました。
テカマチャルコ市長メキシコ記念塔前にて
テカマチャルコ市長一行レセプション
スペイン・メキシコ伝統音楽の演奏
抱擁の像
嵐に遭遇したガレオン船サン・フランシスコ号が1609年9月30日この地へ漂着した。岩和田の住民による人道的かつ決死の救助活動によってドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサ並びに317名が命を救われた。
その史実を介して、メキシコと日本、両国国民の間に友好の絆が結ばれた。メキシコ政府は、墨日交流400周年に因みこの彫刻を御宿町に寄贈した。
(2009年9月26日 記念式典にてメキシコ合衆国政府より)
「抱擁」
この作品は、若くない成熟した男女の精神的に強く結ばれている姿を表現しているが、同時に男女は地球であり、男性の首は太陽、女系の首は月を表し、地球の上で昇る太陽と沈む月が一瞬同時に光を放ちあう瞬間を作者は感じると言っていました。
宇宙の一部である地球に住む人類の愛情と友情を感じていただければ幸いです。
ドン・ロドリゴ上陸の地
ドン・ロドリゴ上陸の地です。記念之塔から約1km程の場所にあります。近隣には駐車場等はございません。
施設に付随した情報など
記念之碑から約100m程歩いた場所にあるあづま家です。中央海岸などを見下ろした風景が見どころです。
ドン・ロドリゴ物語
台風の過ぎ去った後の海は荒れて、海岸には海草や木片など色々なものが漂着していました。部落の人達は朝早くから海辺を捜し歩いて役に立つものを拾うのが慣わしでした。
これからの話は1609年9月30日のことです。村の漁師二人が田尻近く夜明けの山路を歩いていると異様な姿の二人連れがフラフラ歩いて稲穂をむしって食べたりしていました。草むらの陰からよく確かめると、背高の鼻の高い異国民らしいので、びっくりして急いで部落へ引き返し、みんなに知らせました。
庄屋さんは、みんなを集めて相談し、事情を確かめるため元気な若者6人を選んで様子を見に行かせました。
田尻浜には裸同然の者や破れた着物を着ている者がごろごろしていました。その中に日本人らしい若者を従えて、汚れてはいるが立派な顔をした大将らしい人が「昨日から何も食わずにみんな苦しんでいる」と、日本人通訳と共に遭難の苦しみを語り、助けてくれと身振り手振りで頼むのであった。6人の若者達には同情はしても、どうして良いか分からないので2人を部落へ報告に行かせ4人が残って救助を手伝うことにしました。
間もなく、大勢の部落の人がやってきて散乱する器物を集めたり、苦しんでる人を介抱したりして部落へ連れ帰り、どうするかをみんなで相談の結果、大宮寺へ収容しましたが、この悲惨な様子を見た婦人たちは、夫の許しを得て綿入れの着物を与えたり、乏しい食物の中から米・ナス・ダイコン・魚などを分けてやりました。
数日後大多喜城の殿様本多忠朝は家来300人余りを率いてやって来ました。忠朝はドン・ロドリゴに挨拶し、ロドリゴの手に接吻して友愛の情を示しました。そして、家康の指示があるまで3百余人の食糧一切を供給することを約束したのです。
一行は引き続き37日の間、岩和田で過ごした後、途中大多喜城主本多忠朝にお礼を述べ一泊してから、江戸へ出発しました。
担当課:産業観光課